『大人になってもできないことだらけです』(きしもと たかひろ 著)
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子育ての「読めたらええねん」、はなんだろう。
「1日笑顔で過ごせた」かな。
いや、「今日も生きた」だけで十分なんじゃないか。
最低限の及第点なんかじゃない。
それで満点花マルなのだ。
仕事でトラブルが起きたときに、気をつけていることがある。
それは「トラブルをなくそうとしない」こと。
子育ての「読めたらええねん」、はなんだろう。
「1日笑顔で過ごせた」かな。
いや、「今日も生きた」だけで十分なんじゃないか。
最低限の及第点なんかじゃない。
それで満点花マルなのだ。
そんな悠長なことは行ってられないよ。
子どもの将来を考えるのも親や保護者の仕事だろう、と言われるかもしれない。
無責任にかわいがるだけなら苦労しない。
その通りだと思う。
ただ、子どもも大人もしんどくないように、大切なことを見失わないように、順番を整理したいということ。
歩けるようになった、言葉を発するようになった、それだけで感動していたのにいつからか「できないこと」に目を向けている。
ほかの子はできているのに、昨日までできていたのに、そんな想いに駆られて「なんでできないの」と怒っては、怒ってしまった自分をあとで責めてしまう。
けれど、大丈夫。
「今日も生きた」と思ってみよう。
誰かの力を借りてもいい、手を抜いてもいい、愛せなくてもいい。
「泣いたりケガしたりしたけれど、今日も生きた」その積み重ねだけで毎日花マルだ。
そうやって日々過ごす中で少し余裕ができたら「笑顔で過ごせた」、で追加点だ。
そのときそのときに余裕ができた分だけ「より生きやすくなれば」と思っていろんなことに目を向けていけたらいい。
「より生きやすく」が増えすぎて息苦しくなったら、埋もれてしまった「読めたらええねん」を思い出す。
そうやって繰り返していけたらいいなと思う。
文字や言葉は読むためだけにあるのではない。
伝えるためにもある。
「こうでなければダメ」と教えられると、間違わないように間違わないようにと、プレッシャーを漢字ながら取り組むことになる。
するとそのうち、伝えることよりもうまく書くことに力を注いでしまう。
中身のない文章になってしまう。
人の文章を読むときにも、内容ではなく文法の不自然さに目がいってしまう。
本当に大切なことは、なにを伝えたいかを書くことであり、なにを伝えようとしているのかを読むとろうとすることだ。
「今日も生きた」に立ち返ることができたら、こんな風に育って欲しいと焦る気持ちを少し横に置いて、その子にどんな風に生きていてほしいか、そんなことを想像してみたい。
仕事でトラブルが起きたときに、気をつけていることがある。
それは「トラブルをなくそうとしない」こと。
開き直ろうということではなく、改善策は練るけれど「今後一切トラブルを起こさないように」とまでは思わないようにするということだ。
トラブルは厄介だけれど、それを起こさないようにするとどうなるか……。
遊びをやめたその子のように「なにもしないこと」を選んでいってしまう。
そして少しずつ大人からの制限が増えていく。
片付けないような遊びを選んで、喧嘩をしないようにペアを決めて、失くし物をしないように私物は持って来させない。
クレームは避けたいから例外は認めない等々、細かいルールを決める。
守れなければ罰を与えることもある。
そうやって大人も子どもも縮こまっていく。
そうならないように、トラブルが起きたときこそ言い聞かす。
「ひとつずつやで。目の前の問題を一つずつ解決するんやで」と。
喧嘩をしている、片付けをしない、悪口を言う、手を出してしまう。
そんなトラブルが起きれば「二度とないように」と言いがちだけれど、それは無理やねん。
トラブルは起きるねん。
だから「そのたびに解決していけばいい」と思うようにする。
新たな問題が起きればまたその一つひとつに向き合っていく。
万能薬なんてない。
トラブルがおきないようにする特効薬なんてないんだと言い聞かす。
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