教育とは、そのままにしておかないこと

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2024.05.08 発行
実感教育メルマガ2364号




今やどこのクラスで授業をしても、全
員が黙って話を聞くことはほとんどあ
りません。

すぐにおしゃべりが始まります。
よそ見が始まります。

手いたずら、足いたずら(!)が始ま
ります。

集中が途切れます。

昔に比べて視覚や聴覚への刺激が多く、
物事がスピーディに進んでいく現代、

そういう環境で育っている子供らがそ
うなるのは、ある意味仕方のないこと
かもしれません。




しかし、現状がそうだからといって、
それを肯定してよいというわけではあ
りません。

野口芳宏先生は

「教育とはそのままにしておかないこ
 とだ」

とおっしゃいます。

子供らの現状を、常に「よいよい方向」
に変容させていくことこそ教育だとい
うことです。

その意味では、集中しない子供らを、
集中する子供らに変容させていくこと
が教育です。




ところが、管見ではありますが、こと
おしゃべりに関しては、

・授業中おしゃべりをしない子ども
・授業中私語のないクラス

にしていこうとする先生が少ないよう
な気がします。

そういう視点で子供らを変容させよう
としない先生が多いように思います。




なぜなのでしょうか?

私はその理由をずっと、次の2つだと
思っていました。

・静かにさせる方法が分からない
・叱ることができない、叱りたくない




しかし、最近、ふと気づいたのです。
別の理由に。

その理由とは、

先生自身が、小学生のときに、私語の
ない集中した学級を体験していない

ということです。




授業中、おしゃべりや私語があるのが
フツーだったのです。

もちろん、授業が進まないということ
のない程度のおしゃべりです。

それがフツー、それが当たり前、それ
が自然、それが日常…。




それなら、自分が担任しているクラス
で、多少のおしゃべりがあっても気に
ならないでしょう。

それがフツーです。
それが当たり前の光景です。

それが日常だからです。

そういう先生にとっては、しんとして
授業に集中するクラスの方が異常で、
違和感があるのではないでしょうか。




なるほどそういうことか、と気づいた
というわけです。

でも、それでいいのでしょうか。
よいとは思えません。

学級の秩序はおしゃべりから崩れてい
くのです。

学級崩壊の始まりはおしゃべりです。




おしゃべりのない授業
私語のない授業

これを日常にしなければなりません。
これは伝えていくほかありません。




「教」という文字の部首「のぶん、ぼ
くづくり」は、

手に棒(ムチ)を持っている形だと言
われます。

これによって子供と交流する、つまり
物事を教え込むのです。




この棒は「叩く=強制」という意味も
ありますが、指し示すという意味もあ
るでしょう。

字源が必ずしも物事の本質を表してい
るわけではありません。

しかし、正しい方向、よりよい在り方
を指し示すことは、教育の重要な役割
のひとつではないかと思います。




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