『成功者3000人の言葉:読めば今日から人生が好転する! 一流の思考法』(上阪 徹 著)
そもそも世の中は理不尽で 不平等である
文学専攻の著名な大学教授に取材をしているときでした。
「上阪さん、ドストエフスキーを読まなければいけない理由を知っていますか」
「ドストエフスキーの小説には、人間というもののすべてが詰まっているんですよ。
特に、人間が生きる世界が、いかに理不尽で、無慈悲で、不平等で、不合理で、残酷なものであるかが語られている。
それを理解して生きるのと、まったく理解しないで
生きるのとでは、人生は大きく変わっていくんです」
思えば私自身20代の頃は、何かに期待し、幸運を待ち望み、努力が結果につながらないことに怒り、自分を責め続けていました。
ひどい20代でした。
ところが、苦しさは当たり前なのだ、と思えるようになった30代から、人生は一変しました。
その最大の要因は、生きる前提が変わったことだと私は思っています。
生きていく のはそもそも大変、ラクをして生きられるなんてありえない、努力が必ずしも報われるとは限らない…………。
そう思うようになれば、そのつもりで行動するようになる。
自分に納得できるようになる。
認識が言動を変え、結果をも大きく変えるのです。
世の中に期待しない。
その覚悟だけでも、人生は変わります。
人生や世の中に、過度に期待していませんか?
成功のカギは、「やらされ仕事」にある
誰かにやらされている、と考えてする仕事は、うまくいきようがないのです。
なぜなら、マイナスの感情が周囲に伝わってしまうから。
会社にやらされて営業をやっています、という不動産会社の営業担当者から、家を買いたい人はまずいないでしょう。
やらされているという顔をして仕事をしている人に、何かを頼もうとする人が現れるとも思えません。
新しいチャンスもまずやってこない。
もし、やらされ仕事になってしまいそうなときはどうするか。面白いことを言って 放送作家がいました。
「自己催眠をかけてしまえ」と言うのです。
これは自分に プラスになる仕事に違いない。
なんてオレはラッキーなのか、と。
人はよく見ているものなのです。
「こいつに仕事を頼んだら、どんな反応をするの かな。どんな行動を取るだろう……………」と。
やらされ仕事と思ったときほど、むしろ気を引き締めなければいけません。
不安はなくならない
要するに、不安はなくならない。
となれば、不安とは上手に付き合っていく必要が ある、ということです。
では、どうやって? 精神科医への取材でズバリそれを答えてくれる話を聞きました。
ネガティブな感情というものは、そこから目を背けようとしたり、追い出そうとすればするほど、逆に強固になってしまうのだそうです。
そして不安をもたらしている理由は、それがぼんやりとしているから。
ふわふわとしているから、不安になるのです。
だから、真正面から見据えてしまう。
自分は何に不安なのか、逃げずに対峙してし まう。
ぼんやりさせずに、何が不安なのかをはっきりさせてみる。
これだけでも、少なくとも不安に飲み込まれ、自分が蝕まれるようなことは、なくなるはずです。
弱ったら文字にする
不安をぼんやり、漠然としたものにしない方法は、他にもありました。
そのひとつが、文字にすることだ、と語っていたのは、著名なコラムニストでした。
メモにしてもいい。
日記にしてもいい。
他人に見せるものではありませんから、できればパソコンで書くのではなく、手書きで書いてみるといい、と言っていたカウンセラーもいました。
思っていることを書いていくと、なんとなく頭の中でもやもやしていたことが、すっと晴れていくのです。
どうしてなのか、ある作家がこう言っていました。
人間は弱い生き物なのだ。だから、いろんなものを、実はもやもやした状態に置いておきたい。
曖昧にしておきたい。
そうすれば、覚悟して、行動しなくてもいいから。
ところが、書いてしまうとそうはいかなくなる。
何が問題なのか、はっきりと気づけるようになる。
その代わり、覚悟も反省もしなければいけなくなる。
行動もしなけ ればならなくなる。
ただ、ぼんやりとした不安は消えていく。
不安に押しつぶされるようなことはなくなっていくのだ、と。
あなたの苦労は、みんな知っている
例えば、何かの成果を出したとする。
また、それなりの評価を得たことがあったとする。
その背景に、何がしかの努力があったことは、誰でも簡単に想像ができるのです。
ところが、それを言いたくて、口に出してしまう人がいる。
実は大勢いる。
だから こそ、やってはいけない、と彼女は言うのです。
そういうことは、自分が言うのではなくて、人に言わせることなのだ、と。
努力は誰かが見ている。
あるいは、想像している。
だから、「アイツはよく頑張っている」と人に言ってもらえれば、間違いなくまわりから賞賛される。
ところが、それが待てない。
自分から言ってしまう。
これでは、ちっとも美しい話にはならないわけです。
叱られたら感謝せよ
「叱ってくれる人にこそ、感謝しなさい」
あるタレントのひと言です。
若い頃は、あれやこれやと叱ってくる人は、うっとうしいものです。
むしろ、あまり多くを語らずにほったらかしにしてくれて、ときどき褒めてくれるくらいの上司や先輩のほうがいい、と思えたりする。
しかし、実際にはどうでしょうか。
もし、今挙げたタイプの違うふたりの上司や先輩に育てられたら、5年後、果たしてどちらが成長しているか。
うるさく叱ってくれる先輩を持った人のほうなのです。
口うるさくなくて、ときどき心地いいことを言ってくれる上司や先輩は、若いときにはありがたいもの。
しかし、これは一見やさしい対応に見えて、実は残酷な対応です。
なぜなら、それでは後輩がちっとも成長できないから。
そして上司や先輩にしてみれば、適当にやさしくしていたほうがラクです。
うっとうしいと思われたり、嫌われたりすることもないし、自分がイライラすることもありません。
逆に、叱り飛ばすとなれば、どうか。
叱るほうは、実は大変なのです。
叱られる側が想像しなければいけないのは、叱るのにいかにパワーが必要か、ということです。
大きなパワーをかけてまで、わざわざ叱ってもらっている、そのありがたさに気づく必要があります。
愛情があるからこそ、叱れるのです。
愛情がなければ、誰も叱ってなどくれない。
むしろ、叱ってもらえなくなったときや、叱ってもらえない会社こそ、心配すべきです。
匿名発言には近づかない
相手をリスペクトした上での批判や、相手の成長がイメージできる批判は、むしろするべきでしょう。
逆にいえば、してはいけない批判の仕方もあります。
相手をリスペクトしていない批判や、相手の成長がイメージできない批判です。
典型的なのは、匿名で簡単に人を傷つけることができるようになったネット文化かもしれません。
まるで自分の憂さ晴らしをするかのような、悪意に満ちた言葉を見かけることもあります。
傷つけられている側へのリスペクトも、想像力もまったくない 文章に出会うこともあります。
匿名の批判に関しては、ある元IT企業の経営者がこう語っていました。
大事なことは、近づかないことだ、と。
「あそこに書かれているよ」とわざわざ言ってくる友人とも、距離を置くようにする。
リスペクトのない批判に関わっても、何もいいことがないから。
そういう思い切りも、時には必要です。
自分を強くするためにも、です。
ヒーローインタビューを受けられるか
成功を目指している若い人にメッセージを、という質問に、ある経営者がこう答えたのです。
「自分がヒーローインタビューを受けているところをイメージしてみればいいんじゃないですか。
そうすれば、わかると思うんですよ。
もし今、インタビューで語るに足る内容がなかったとすれば、まだまだ成功には早い、ということです。
いつか成功したいなら、ヒーローインタビューに答えられるような体験を求めればいいと思うんで すよ」
成功をつかみたい、うまくいく人になりたい……。
でも、そのためには、やらなけ ればいけないことがある。
それを通過していなければ、成功への道はない、と。
裏返してみると、もし今、自分が何らかの苦しみや悩みを抱えているとすれば、それは良好なシグナルかもしれません。
目指すべきは、地位ではなく、幸せ
独立したばかりの起業家や小さな企業の社長に取材をする仕事でした。
これが想像 をはるかに超えた面白い仕事だったのです。
従業員が数人しかいない。
狭くて古くて 汚いオフィス。
社長の給料はとんでもなく少ない……。
しかし、驚いたのは、取材に訪れた私やカメラマンを歓迎してくれた社長たちの目は一様に輝き、自分たちのことを本当にうれしそうに語ってくれたことです。
ほとんど例外なく、誰もが幸せそうでした。
社会でエリートと呼ばれている人たちよりも、 はるかに幸せそうな人も少なくありませんでした。
このとき、気がついたのでした。
もしかすると、社会的な地位を手に入れることと、幸せになることとは、別物ではないか、ということに、です。
では、多くの人は、何を求めて生きているのでしょうか。
地位を手に入れることな のか、それとも幸せになることなのか。
そこを間違えてしまっては危ない可能性があと思うのです。
もっといえば、社会的地位などに関係なく、幸せは存在するということです。
「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」
ビスケットの缶には、いろいろな種類のビスケットが詰まっています。
おいしそうなピスケットもあれば、あまりおいしくなさそうなビスケット、好きではない味のビスケットも詰まっている。
でも、人生ではすべてのビスケットを口に運ばなければいけない。
もし、おいしそうなビスケットだけを食べてしまったらどうなるか。後に残るのは、好きではないビスケットばかり、ということになる。
逆に、先においしくないビスケットばかりを食べたとしたらどうか。
あとは、 おいしいビスケットだけを楽しめる。
これを人生に置き換えると、仮に今、苦しい人生を歩んでいたとしたら、これから 待っているのは、おいしい人生だ、ということです。
一方で今、最高の人生を歩んで いると考えているとしたら、注意しなければならないということです。
おいしくない ビスケットが待ち構えているかもしれないから。
ただ、ここで伝えておきたいのは、ビスケットの缶の中で、おいしいのとそれ以外の割合は、実は定められていないことです。
誰が決めるのかといえば、自分で決める のです。
成功者たちは、あまりおいしくないビスケットまで、おいしく食べてしまっていた人たち、ともいえます。
逆に世の中には、おいしいピスケットをおいしくない と思い込んでいる人もいます。
まさに人生の妙味なのでした。
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