『自信―――心を強くするのは、それほど難しくない』(加藤 諦三 著)
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- 自信のない人は、何をすべきであるか、何をすべきでないか、何を理解すべきか、それらのことを他人にゆだねてしまっている。
- 今、自信を失っている人は、はっきりと自覚しなければならない。自分の関することは自分が決めてよいのである。
- 自分が不完全であればあるほど、人は他人にむかって完全であることを求める。
- 自分自身に失望している人は容易に他人に失望し、他人を非難する。
- 操作される人というのは、自分の行動の良し悪しの判断を他人にまかせてしまっている。
- 誰からも好意をもたれようとすることは、緊張した規範意識を強くする。生きていることが辛くなる。
- 忘れてならないことは、傷つきやすい人ほど他人を傷つけることには無関心であるということである。
- 本当の自分の感じ方がそれほど立派でないのに、立派な感じ方をしているように偽るからこそ不快になる。
- ちょっとしたことですぐに不機嫌になるのは、本心ではないことをたりつづけて、慢性的不満症だから
- 内心に自信がないから、他人の望むことを、つねにしていないといられない。
- 他人に好かれることを人生の目標にすると、ノイローゼになる。他人が自分をどう思っているかがで、自分を評価しようとしたりしていると、いつまでも自信はもてない。
- 人間にはいろいろな種類の人がいる。すべての人と深く付き合う必要などない。
- 自己主張とは何でもない、ただ、自分を偽らないということなのである。
- 危険をおかしながら、自己を主張する時、その人は自信を得る。
- 相手の都合にあわせなければ、相手に嫌われるのではないか、そのように恐れてゆずるのではない。けっして相手への恐怖から相手にゆずってはならない。
- ノーと言うのが恐い、それほどまでに相手を巨大化してしまったのは、ほかならぬ自分自身であるということを忘れてはならない。
- その恐怖心は自分がある行動様式をとることによって、一人で勝手につくりあげた恐怖心であるから、同じように自分の行動の仕方でその恐怖心は消えるものである。
- 自己中心的な人は、自己中心であるがゆえに心理的には頼りない存在である。だからこそ、他人に嫌われることを異常に恐れたりする。
- 他人から承認を得よう、他人との関係を円満にしようと無理な努力をすることで、他人と会いたくなくなる。会うのが面倒になる。
- イエスの時はイエスと言い、ノーの時にはノートと言えるようになるためには、まずその人が、自分の人生は自分で責任をもたねばならいのだ、ということをはっきり自覚しなければならない。
- 自己主張の第一歩は、イエスとノートをはっきりと言えるようになることである。
- 私たちは自分に与えられた真の戦いの場を避けてはならない。自己主張とは、戦いなのである。
- 私たちは、ありのままの自分を他人に受け入れてもらって自信がつくのである。
- 自分自身であろうとすればいいのである。
- 親が実際の自分を受け入れてくれなかったから、他人もまた実際の自分を受け入れてくれないと錯覚してしまったのだ。
- 他人の限界に怒るのは、それが自分に不利になると考える利己主義者だけである。
自信のない人は、何をすべきであるか、何をすべきでないか、何を理解すべきか、それらのことを他人にゆだねてしまっている。
操作する人は、まず自分の不満を理解すべきである、と相手に要求する。
要求された側は自分の行動が相手に不満を与えないか、イラだたせないか、傷つけないかと、たえず気を遣わなければならない。
相手を操作しようとする人は、相手はまず自分の気持ちを理解すべきであると思っている。
操作される人は、相手の気持ちが理解できないのではないかと、つねにビクビクしている。
今、自信を失っている人は、はっきりと自覚しなければならない。自分の関することは自分が決めてよいのである。
当然何を理解すべきであるかも、自分が決めてよいのである。
「オレの気持ちを理解していない」と言って怒った人は、今まで、あなたの気持ちを理解したことがあったろうか。
私たちは自分の決断によって他人に与えれば与えるほど自分は豊かになるのに、
他人に決断をゆだねてしまって、奪われれば奪われるほど逆に良心の呵責に苦しみだす。
自分が不完全であればあるほど、人は他人にむかって完全であることを求める。
自己主張のない人は、あなたが他人と調和して生きることにおいて神様のようであることをあなたに期待した。
自己主張のない人は、あなたが完全であることをあなたに期待した。
もし完全でなければ腹をたて、完全にむかって努力することを期待した。
自己主張のある人は、あなたに完全であることなど要求しない。
自己主張のある人があなたに期待するのはただ一つ、あなたが自己主張することなのである。
自分自身に失望している人は容易に他人に失望し、他人を非難する。
自分自身に失望した人の自己本位な感情や期待に負けて、あなたは自分を喪失しているというのが、事の真相である。
自己主張のない人の期待は、本当は犬の遠吠えのようなものなのである。
しかし自信のない人は、その犬の遠吠えに臆病にもふるえあがったということである。
自分は一升瓶、相手は犬の遠吠え。これを自覚することである。
操作される人というのは、自分の行動の良し悪しの判断を他人にまかせてしまっている。
自分の行動の善悪の判断を自分でしようとせず、他人にまかせてしまう。
自分を操作しようという人に、自分の行動の善悪の判断をませてしまっているのだから、相手の意向が恐くて仕方ない。
誰からも好意をもたれようとすることは、緊張した規範意識を強くする。生きていることが辛くなる。
あなたが私のことをひどい人間だと思うのは、あなたの自由です。
しかし私の行動の善悪の判断は、私がします。
あなたがどう思うとあなたの勝手ですが、あなたの解釈を私に押しつけるのだけはやめてください。
忘れてならないことは、傷つきやすい人ほど他人を傷つけることには無関心であるということである。
自分がささいなことで傷ついて大騒ぎをする人は、逆に他人を深く傷つけながらも、自分が傷つけたということする気づかない。
他人を平気で傷つける人ほど、自分が自分を傷つけながらも大騒ぎをするのだ、ということは肝に銘じておくべきことだる。
つまり自己愛的な人間であるから、他人を傷つけてもわからない。
本当の自分の感じ方がそれほど立派でないのに、立派な感じ方をしているように偽るからこそ不快になる。
私たちにとって大切なのは、本当の自分が立派になることであって、本当の自分の感じ方を偽って立派ことを述べることではない。
本当の自分を立派にしようとする望みやエネルギーは、本当の自分の感じ方を自分も認め、それを述べることができるところから生まれる。
本当の自分の感じ方を偽ってのべている以上、自分は萎縮していくだけである。
ちょっとしたことですぐに不機嫌になるのは、本心ではないことをたりつづけて、慢性的不満症だから
あなたが本当の感じ方からすればノーと言いたいのに、他人の望むことをすべきだという目に見えない圧力に屈して、イエスと言い続けたから。
イエスと言うことは本心ではない。
本心ではないことをやりつづけて、あなたは慢性的不満症だった。
その不満が、他人のちょっとした言動が引き金になって爆発していた。
内心に自信がないから、他人の望むことを、つねにしていないといられない。
他人に好かれることを人生の目標にすると、ノイローゼになる。他人が自分をどう思っているかがで、自分を評価しようとしたりしていると、いつまでも自信はもてない。
他人に好かれようとして、とりつくろう。
とりつくろうことにエネルギーを使いすぎて、肝心の自分を豊かにすることができない。
他人への思いやりで疲れるのではなく、自分の体面の維持で汲汲としてしまう。
他人にバカにされたくない、嫌われたくない、と汲汲として疲れ果てる。
人間にはいろいろな種類の人がいる。すべての人と深く付き合う必要などない。
そんなことをしようとしたら、ノイローゼになってしまう。
自分の姿を偽らずにいれば、その中から親しい人もできるし、一年に一度ぐらい会う人もできるし、1ヶ月に一度ぐらい会う人もできる。
自分を偽って他人に見せていると、その付き合いの深さのさまざまなレベルができてこない。
誰とでも同じような程度の親しさになってしまう。
本当の親友から単なる知人まで、いろいろなレベルの付き合いができていることが望ましい。
自己主張とは何でもない、ただ、自分を偽らないということなのである。
しかし自分を偽らないというだけのことで、時に修羅場となる。
しかし修羅場を生き抜かなければ、自信をもてないという運命にある人もいる。
危険をおかしながら、自己を主張する時、その人は自信を得る。
自己主張とは、自分の望みを相手の前にさらけだすことである。
その結果として、その相手を失うかもしれない。
その相手とは今後まったくべつの人生を歩むかもしれない。
そんな危険をおかしながら、自己を主張する時、その人は自信を得る。
相手の都合にあわせなければ、相手に嫌われるのではないか、そのように恐れてゆずるのではない。けっして相手への恐怖から相手にゆずってはならない。
自己主張せよということは、けっして自分の都合を主張せよ、ということではない。
むしろできることなら、相手の都合にあわせるほうがよい。
自分にとって都合がよいから、相手の都合をむしすることが自己主張ではない。
ただ、この時に大切な条件がある。
相手にゆずるのは、相手の都合を考えて相手にゆずるということである。
相手の都合にあわせなければ、相手に嫌われるのではないか、そのようにおそれてゆずるのではないということである。
相手への愛情からならどんなに相手にゆずってもよい。
しかし、けっして相手への恐怖から相手にゆずってはならない。
相手に嫌われるのが恐くて自分が折れてしまうようなことをしていると、何となくうちひしがれたような、もの悲しい気持ちになってしまう。
相手の依頼を断ったら、もう以後、相手から拒絶されるのではないかという恐怖感からは、けっして依頼に応じてはならない。
ノーと言うのが恐い、それほどまでに相手を巨大化してしまったのは、ほかならぬ自分自身であるということを忘れてはならない。
相手が悪いのでも、他の誰が悪いのではもない。
自分が勝手に一人で相手を恐怖の対象にしてしまったのである。
なぜ自分は相手にそれだけの自分への影響力を与えてしまったのか、それは自分が弱いからである。
自分の弱さが何でもない相手を巨大化してしまっただけの話である。
その恐怖心は自分がある行動様式をとることによって、一人で勝手につくりあげた恐怖心であるから、同じように自分の行動の仕方でその恐怖心は消えるものである。
自己中心的な人は、自己中心であるがゆえに心理的には頼りない存在である。だからこそ、他人に嫌われることを異常に恐れたりする。
自らの恐怖心からでた行動を、いわゆる道徳によって正当化してしまう。
他人に親切にしなければならない、親孝行は大切なことである、などさまざまな道徳律によって、恐怖心からでた自分の行動を正当化してしまう。
相手に何かの行為をして、そのあとで何となく不満になった時、その行為を立派な行為だなどと、けっして正当化してはならない。
それが表面上どんなに立派な行為であっても、それはしないほうがよい行為だったのである。
他人から承認を得よう、他人との関係を円満にしようと無理な努力をすることで、他人と会いたくなくなる。会うのが面倒になる。
会わなければならないと思うと気が重くなる。
自分を救うことに遠慮することはない。
他人との関係を円満にしようと配慮したところで、他人との関係は円満になるものではない。
他人との関係を円満にしようとすることで、むしろ人間は自滅する。
他人との関係が円満であることは、自信のある行為の結果である。
他人との関係を円満にすること自体は、目的にはならない。
それを目的とするから、会合への出席が苦痛になったり、来客があると頭重感におそわれるのである。
イエスの時はイエスと言い、ノーの時にはノートと言えるようになるためには、まずその人が、自分の人生は自分で責任をもたねばならいのだ、ということをはっきり自覚しなければならない。
自分の人生に対する責任感のない人は、けっしてポジティブな自己主張ができない。
自己主張の第一歩は、イエスとノートをはっきりと言えるようになることである。
他人の顔を見ずに賛成の時は賛成の、反対の時は反対の手をあげられるということである。
私たちは自分に与えられた真の戦いの場を避けてはならない。自己主張とは、戦いなのである。
しかし、自己主張なくして自信はない。
自己主張が自信を生み出し、自信がまた自己主張をさせる。
私たちは、ありのままの自分を他人に受け入れてもらって自信がつくのである。
他人からどんなに高く評価してもらっても、それが自分についての事実でない限り、自信がつくものではない。
自分自身であろうとすればいいのである。
猿の水練、魚の木登り、という格言がある。
猿は木登りがうまいし、また木に登るようにできている。
魚は水の中で泳いでいればいいのである。
しかし時に人間は、これと逆のことをやろうとする。
親が実際の自分を受け入れてくれなかったから、他人もまた実際の自分を受け入れてくれないと錯覚してしまったのだ。
自信のない人は、実際の自分を受け入れてくれるような人のところに行けばよいのである。
実際の自分を否定するような人の間にばかり身を置いているから、自分の無価値感に悩むのである。
他人の限界に怒るのは、それが自分に不利になると考える利己主義者だけである。
子どもの限界に怒る親というのは、その子どもの評判によって自分の評価をあげようとしている親である。
子どもの限界に怒る親は、子どもに心理的に依存している親で在る。
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