『子育てに迷ったときのお母さんへの言葉』より

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『子育てに迷ったときのお母さんへの言葉』(佐々木正美 著)

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・家ではいい子でなくていい
・子どもは家庭が思い切り安らげて、くつろぎの場になっていれば大丈夫
・家庭で、叱って教えることは何一つない
・子どもはお母さんには言えないことがある
・きっかけと原因は違う
・不登校の生徒の多くは、人との関係が苦しい
・子どもが人間関係を学習する場は、まず家庭、家族
・親戚にしばらく泊まるだけで不登校が解決できた時代
・人間関係の第一歩は、お母さん
・発達に飛び級はない。見せかけの前進はあっても、必ず戻ってくる(エリクソン)
・父なる機能の不在という延長線上でできあがる人間のパーソナリティ
・子どもは親だけでは育てられない
・学校で嫌なことがあって、学校に行きたくないと言ったら、理解を示してゆっくり待つ
・育児に失敗するのはうるさいことを言い過ぎるから
・しつけとは、子どもの長所を見つけて刷り込むこと」

・家ではいい子でなくていい

子どもが自己中心的なのは、発達段階として自然なこと。

人に思いやりをかけるのは、やや他人行儀な行動。

親に対して他人行儀はない。

親にはそんなにいい子に見える必要はない。

外では多少いい子にみえる、それがいい。

反対だったら大変。

・子どもは家庭が思い切り安らげて、くつろぎの場になっていれば大丈夫

不快なこと、つらいこと、背伸びをしなければならないこと、他人行儀にしなければならないことが家庭の外にあって、家に帰ってくれば、ほっとする。

くつろげるはずの家で、家族にいいところを見せようとしていたら、まずくつろげない。

くつろげるのは保健室くらいしかない、ということになってしまう。

これが危険。

・家庭で、叱って教えることは何一つない

お母さんが「これはいけない」と自制されたことにより、子どもも自制するようになってきたわけ。

これでいい。

何か悪いことをして教えることは必要ですが、叱りながら言う必要はない。

・子どもはお母さんには言えないことがある

言えない理由にはいろんなことがある。

お母さんを怒らせたくない、お母さんを悲しませたくない、お母さんには言わないほうがいいという愛情の場合もあるし、お母さんへの恐怖の場合もある。

どこででも思ったことをしゃべっている人がいるとしたら極めて鈍感な人で、他者に対する気遣いや配慮、人の気持ちを読み取る能力がない人。

・きっかけと原因は違う

突然の雨→傘が無い→ぬれて帰る→熱が出る→医者へ行く→レントゲンを撮る→結核が見つかる

発熱には結核という原因がもともとあった。

雨に濡れたのも、過労もきっかけでしかない。

原因をしっかり分けて考えないと対応を間違える。

「学校でこういう不愉快なことがあって、不登校になりました」

それでは、転校すれば治りますかというと、そういうものではない。

同じ体験をして、ある生徒にとっては不登校のきっかけになる場合もあるし、何事もなく学校に行く生徒もいる。

ずぶぬれになって帰っても結核を発症しない人はたくさんいて、むしろその方が多い。

不登校や引きこもりの原因は、長い経過の中でできてくるものが多い。

きっかけよりも原因のほうにしっかり対応しないと、問題は解決しない。

・不登校の生徒の多くは、人との関係が苦しい

人と交わるようなところへ行くことに、いろいろな程度に、いろいろな形で抵抗を感じるようになってしまっている。

問題の本質は、人との関係に楽しみとか喜びとかを感じにくいということ。

こころのところをしっかり知って、そこを解決していかなければならない。

・子どもが人間関係を学習する場は、まず家庭、家族

お子さんにとって家庭が居場所になるような工夫は心がけること。

個人の努力、それは人と交わる努力。

ご夫婦ができるだけ仲良くする。

できれば、ご近所で気の合う人を見つけておしゃべりする。

親戚のおじさんおばさんに、安心してお子さんを預ける。

・親戚にしばらく泊まるだけで不登校が解決できた時代

昭和40年代から不登校の生徒に会い始めた。

当時は「学校恐怖症」と行った。

全ての人に同じ提案をした。

夏休みや冬休み、春休みと行った長い休暇に、親戚のうちに泊まりにいくこと。

お父さんやお母さんは1,2日で帰り、お子さんだけしばらく親戚に泊まる、それだけ。

それですべてが解決できた時代があった。

昭和40年代から50年代の初め。

親は子どものためなら命を投げ出すほどの愛情がある。

けれど、親というのはまた邪魔もする。

親以外の人はうすさいことはあまり言わない。

こういうさまざまな人の手の中で、子どもは育つといい。

・人間関係の第一歩は、お母さん

子どもが小さいときは、人間関係がそんなになくても、集団の中に紛れていられるが、高校生や大学生になると、人格や主体性をしっかり持っている人と持っていない人の落差が大きくなる。

人間関係をしっかり築けるように育てるには、お子さんのいうことをたくさん聞いてあげること。

人間関係の第一歩は、お母さんだと自覚していただきた
い。

それをお手本や踏み台にして、そのほかの人との関係ができる。

・発達に飛び級はない。見せかけの前進はあっても、必ず戻ってくる(エリクソン)

ですから、何歳からでもいい。

自分が気付いたとき、そこからよく聞いてあげる、できるだけ指示や命令、むやみに怒るなどということをしないであげれば、それでちゃんと上手に相殺される。

完全にしようなんて思わなくていい。

誰もそんなことはできない。

「これはまずかったな」と思ったことがあったら、少しずつ減らしていけばいいし「やってしまった!」というときには一緒におしゃべりして、「お母さん、気がつかないでよかれと思ってやったけど、本当はいいことじゃなかったと思ってるんだ」なんてことをお話されてみてもいい。

「お母さんも、こういうことを少しずつ減らしていこうと思うけど、またやっちゃったら、ごめんね」

それでいいじゃないか。

・父なる機能の不在という延長線上でできあがる人間のパーソナリティ

保護され、許容された私的な空間から離れられない、あるいは出ていくの非常につらさを感じる子どもが作られていく。

それでいながら自己主張が非常に強い。

社会的ルール、忍耐がない。

自己主張、こだわりが強い孤立的な子どもが育ってしまう。

父性的な機能が無いと、こういう子どもになりえるということ。

自己主張ばかりする、価値化や理想・目標がないということは人間を脅迫的にすることにもなる。

理想、目標、価値観というものが教えられないと「ユニフォーム的な人間」が作られる。

「ユニフォーム的な人間」とは、外見や精神、行動に主体性をもたないということ。

自分に主体性がなり父性的な機能不在の状態から子どもたちはどうなるかというと、最悪の場合、社会的未成熟、自我未成熟、法則・ルール・道徳観・倫理観・理想・目標を失って生きる。

そして、しつこく「目的や目標の極めて曖昧な攻撃性」を発揮する。

・子どもは親だけでは育てられない

近頃は、家族単位で、自宅の延長線で楽しめるというような状態で生活している。

だから社会性も育たない。

家庭の中だけの人間関係で、子どもの人格が育たず、ときに悲劇が起きたりする。

親が十分な母性的な機能、父性的な機能を発揮し、割に子育てが順調にいったからといっても、子どもは親だけでは育てられない。

友達や先生、親以外の大人との関係も含めた人間関係があってこそ、子どもの社会性は形成されていく。

・学校で嫌なことがあって、学校に行きたくないと言ったら、理解を示してゆっくり待つ

もし、お子さんが学校で嫌なことがあって、学校に行きたくないと言ったとする。

まずお母さんが理解示し、お子さんの気持ちをわかってあげようとすれば、家では安定する。

家でゆっくり勉強を教え、心を込めてごはんを作ってあげる。

今は逃避して休みたいだけ。

本当は家でずっと過ごしたいとは思っていない。

ゆっくり休息し、エネルギーをつければ「やっぱり学校へ行く」となるから、待っていてあげる。

その間は「今日の勉強はまだ?」などと急かさない。

ゆっくりと待って、ごはんを作ってあげる。

・育児に失敗するのはうつさいことを言い過ぎるから

私たちは子どもの欠点を直そうとしがち。

しかし、直そうというより、信じるというのがいい。

高い立場から子どもを認めるのではない。

そのような傲慢な態度ではない。

親にも欠点があるのだから、子どもの欠点を丸抱えで信じること。

欠点を丸抱えするということは、よい点もたくさん知っていると言うこと。

待っていてもむだかもしれません。

それでも待つ。

待っていたらダメになってしまうかもしれないなどとは思わない。

むだかもしれないけれども、それでも待つ。

ほったらかしにしておくのではない。

見ていないのではない。

見ているのだが、遠くから。

私たちがしばしば育児に失敗するのは、子どものそばに行ってうるさいことを言い過ぎるから。

・しつけとは、子どもの長所を見つけて刷り込むこと」

短所や欠点を直すことではない。

気になる点があるとしたら「こうしたらいい」と教えてあげればいい。

待つ愛情をもってください。

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