『世界が憧れた日本人の生き方 日本を見初めた外国人36人の言葉』より

学級経営

『世界が憧れた日本人の生き方 日本を見初めた外国人36人の言葉』
(天野瀬捺 著)
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・馬子は「旅の終わりまで旅人を無事届けるのは馬子として当然の責任だ」と言って、頑としてお金を受け取らなかった
・気持ちよく挨拶する
・礼儀作法として笑いを絶やさない
・いつでも陽気である
・日本の文化というものが、一般大衆の共通の財産であることを観察した
・日本の学生は、一般に礼儀・従順・服従の手本
・勉強熱心、注意、礼儀、慇懃な態度
・おもてなしに心から感激
・ありとあらゆる用意をする
・桂離宮 を見て「アテネのパルテノン神殿と並ぶ世界二大建築物だ」と絶賛

・馬子は「旅の終わりまで旅人を無事届けるのは馬子として当然の責任だ」と言って、頑としてお金を受け取らなかった

ある日のこと、馬の背に取り付ける革帯が一つ紛失してしまうという事件が発生。

もう辺りも暗くなり、半分あきらめかけていたところ、馬を引く馬子がそれを探しに4キロメートルも戻って見つけてきてくれたのだ。

しかも、その労をねぎらってイザベラがいくらかお金を渡そうとしたところ、馬子は「旅の終わりまで旅人を無事届けるのは馬子として当然の責任だ」と言って、頑としてお金を受け取らなかったという。

イザベラは、この並外れた気品と親切さに感激した。

子どもにお菓子を与えようとしたとき、子どもたちは父母の許しを得てからでないと受け取れないと言い張った。

無事許しをもらって戻ってくると、にっこりして頭を深く下げ、イザベラにお礼を言ってようやく受け取った。

しかも、もらってすぐ食べるのではなく、自分で食べる前にまわりにいる他の子どもたちに先に渡し、自分はそのあとにようやく食べるのだった。

(イザベラ・バード(紀行作家) 1878年、イギリスより)

・気持ちよく挨拶する

荷物を担いでいる人たちは、裸に近い恰好だった。

肩に竹の支柱をつけ、それにたいへん重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだった。

(中略)

かくも難儀な仕事をしているにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で、気持ちのよい挨拶をしてくれた。

(グスタフ・クライトナー(軍人/外交官) 1878年、オーストリアより)

・礼儀作法として笑いを絶やさない

笑いは日本人の礼儀作法の一つである。

道すがら出会う人びとはみな気持ちがよく、顔に笑いをたやさない。

(エドモンド・コトー(ジャーナリスト) 1881年、フランスより)

・いつでも陽気である

日本では、誰もがすっきりとして、満足そうで陽気な表情をしていて、イライラしたり、むっつりした顔には一つとして出会わなかった。

(シェラルド・オズボーン(軍人) 1858年、イギリスより)

・日本の文化というものが、一般大衆の共通の財産であることを観察した

またパーシヴァルは、自然に対する独特の感応の仕方に日本人の特徴を見いだすと同時に、大衆への文化の浸透度合いにも目を見張った。

「実際、個々の人間の知性の差の大きいのに馴れたわれわれにとって、日本における大衆の芸術愛好心には驚かされるものがある」。

平凡なお茶屋の娘が行儀作法の手本であり、日雇い労働者たちが仕事の合間に将棋を指すのを見るにつけ、日本の文化というものが少数の人々のためのものではなく、一般大衆の共通の財産であることを観察したのである。

筋金入りの実証主義者であったパーシヴァルは、このような日本人の姿に自分たちと逆の世界を見る思いを強く感じたのだった。

(パーシヴァル・ローウェル(天文学者/世界漫遊家) 1883年、アメリカより)

・日本の学生は、一般に礼儀・従順・服従の手本

法学教育の任務も引き受けていたジョルジュは、日本の学生たちに教えるなかで、勉学に臨む学生たちの態度に感激する。

「日本の学生は、一般に礼儀・従順・服従の手本である。

私は無作法だという話をかつて聞いたことがない。

彼らには反抗という観念は知られていない。

罰則の存在しない学校が一つならずある。

それほど処罰は不要である」

と記し、毎日の予習・復習を欠かさない学生の学びに対する熱心さを高く評価していた。

(ジョルジュ・ブスケ(弁護士) 1872年、フランスより)

・勉強熱心、注意、礼儀、慇懃な態度

これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは実に愉快だ。

彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である」。

日本の若者たちに浸透した道徳のレベルの高さを、彼は手放しで褒め称えたのだった。

彼のある日の日記はこう記している。

「親切で、よく世話をし、丁重で、もてなし振りよく、食物も時間も大まかに与え、最後の飯の一杯さえも分け合い、我々が何かをする時─採集する時、舟を引張り上げる時、その他何でも──にでも、人力車夫や漁師達は手助けの手をよろこんで『貸す』というよりも、いくらでも『与える』……これを我々は異教徒というのである。

(エドワード・モース(動物学者) 1887年、アメリカより)

・おもてなしに心から感激

西洋の習慣に従い、素晴らしいサービスや親切な扱いに心付け(チップ)を渡そうとするが、どうしても受け取ってもらえない。

そんな日本の人々の謙虚な様子について、「こんな経験は初めてで、特記しないわけにはいかない」と、ある日の日記に記した。

あるいは、「他のどの国でも旅人は、この国の人々から受けるような変わらぬ礼儀正しさ、誠実さ、そして兄弟のような親切を経験することはあるまい」とも記し、日本で受けた初体験のおもてなしに心から感激していたアーサーであった。  

(アーサー・H・クロウ(商人/旅人) 1881年、イギリスより)

・ありとあらゆる用意をする

日本の宿屋に泊まるというのは、(中略)私たち英国人にとっても楽しい経験だ。

(中略)まず彼は身ひとつで宿にやってくればよい。

旅行鞄などどうして必要だろう。

宿につくと塵ひとつ落ちていない部屋に案内される。

その部屋の畳の上にはもう小さなお茶道具が置かれてあって、お茶の用意ができている。

部屋の隅には枕と布団がそろえてある。

食事が運ばれてくるのに十分とかからない。

そのあとは風呂が待っている。

彼はゆっくりと熱い湯につかる。

湯から上がると、宿が用意したきれいな柄の丹前を羽織って、そのあたりをぶらぶら歩き、四方山話を楽しみ、煙草を吹かす。

そうこうしているうちに夜になる。

あとは部屋に戻って寝るだけである。

これこそ安楽というものである。

(ラドヤード・キプリング(詩人/児童文学者) 1889年、イギリスより)

・桂離宮 を見て「アテネのパルテノン神殿と並ぶ世界二大建築物だ」と絶賛

ブルーノは亡命者という立場であったため、建築学の権威とはいえども公職につくことはできなかったが、彼を支えたある企業から、 少林山達磨寺 の「洗心亭」に住むことを勧められ、彼はここを拠点として活動を開始した。

あるとき京都を訪れたブルーノは、 桂離宮 を見て「アテネのパルテノン神殿と並ぶ世界二大建築物だ」と絶賛。

これがきっかけで、同建築は世界的に「発見」されることとなった。

桂離宮においてブルーノは、真の日本をよく知ることができたという。

またブルーノは、日本の床の間を見事な創造物であると注目し、「床の間は地球上どこにおいても達成され得なかった所の、まことに世界の模範と称しても 差支えない一つの創造物なのである」と特記した。  

(ブルーノ・タウト(建築家) 1933年、ドイツより)

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