『命ある限り歩き続ける』より

本の学び

『命ある限り歩き続ける』
(五木寛之・横田南嶺 著)
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花が咲いている
精いっぱい咲いている
私たちも
精いっぱい生きよう

色紙を差し出した、当時15歳だった横田さん(現円覚寺派管長)に松原泰道先生はこのように書いてくださった。

・仏教の正しい布教ができず申し訳なく思う
・ありがとうの一言が周りを明るくする
・全てを手放して微笑みながら坐る座禅がある
・真俗二論「額に王法、心に仏法」
・最後まで語るということを大事に
・肉声でその人の話を直に聴いたということが一番大事
・黙読というのは近代に始まる

・仏教の正しい布教ができず申し訳なく思う

先般、オウム真理教事件の受刑者たちの刑が執行されましたけれども、あの事件があった平成七年の秋に、松原先生は臨済会主催の講演会で講演をなさいました。

当時は、教祖の麻原はけしからん、若いインテリがあんなものにかぶれて殺人まで犯すとはなんたることだという声が渦巻いておりました。

特に宗教関係の人はオウム真理教を強く批判していましたけれども、松原先生の態度は全く違っていました。

先生はその講演で、こんなふうにおっしゃいました。

「いま日本中の人がオウム真理教の批判家になっている。

 私は批判する前にあの前途有為な若い人たちに申し訳ないと思う。

 あの前途有為な若い人たちがなぜ道を外れてしまったのか、批評する前に、私自身が仏教の正しい布

 教ができなかったということを申し訳なく思うのです」

あの時は心が震えるような感動を覚えました。

・ありがとうの一言が周りを明るくする

「ありがとうの一言が周りを明るくする。

 おかげさまの一言が自分を明るくする。

 ありがとう、おかげさま。

 これが南無の心です」

南無とは仏に帰依することで、仏教の心といっても良いでしょう。

・全てを手放して微笑みながら坐る座禅がある

一週間坐禅だけをする時もあるんですが、終わった後でガタガタッと体が弱ってしまったり、だんだん若い人たちについていけなくなりつつあるのを痛感するんです。

これでは何をやっているかわからないなと思いまして、自分が意図的にやろうとしていた腰を立てる、吐く息を長くする、精神を集中させるといったことを思い切って全部やめてみました。

これをやってると堂々巡りだと。

そうやって全部手放してただ坐っていると、心の内から喜びが湧き上がってきたのです。

それまで奥歯を噛み締めて、険しい形相で坐禅をしてきましたが、二コニコと微笑みがこみ上げてきました。

私はそこで、すべてを手放して微笑みながら坐る坐禅というのもあるのではないかと発見しました。

・真俗二論「額に王法、心に仏法」

でも、こうしたものを軽く見る風潮は禅宗だけではなくてどこでもあります。

真宗の世界でも親鸞の書いた『教行信証』は大事にされて誰もが尊敬しますけれど、弟子が書いた『歎異抄』は通俗的なものだからだめだという見方が暗黙のうちにありますね。

そういう中にこそ本当に言いたいところが伝わっているのではないかと私は思います。

真宗には「真俗二論」という言葉があります。

「額に王法、心に仏法」と言ったりするのですが、時と場合で法を使い分けるという考え方です。

でも、これに対して批判も多いんです。
ピュアじゃないと。

・最後まで語るということを大事に

(松原泰道先生は)百一歳でした。
喫茶店で説法をされた日の晩に入院されて、三日後にお亡くなりになったんです。

だから最後まで語るということを、しかもお寺の中ではなくて街へ出て語るということを大事にしてたんだなぁと思います。

そして松原先生は、あの世へ行ってからも活動を続けようと考えておられたようで、お亡くなりになる前にこんな色紙を用意なさっていました。

「私が死ぬ今日の日は
 わたしが彼の土でする説法の第一日です。
 衆生無邊誓願度
 佛道無上誓願成」

・肉声でその人の話を直に聴いたということが一番大事

私が松原先生のことを非常に尊敬する理由の一つは、語ることを大事になさったということです。

近代から現代にかけては、生の言葉で語られたことよりも、書かれたものを大切にする気風があります。

エクリチュール(書かれたもの)とパロール(話し言 葉)というような分け方をしますね。

しかし、万巻の経典でもブッダ自身が筆を執って執筆したものは一つもありません。

ブッダが説法をし、問答をしたものを弟子たちが一所懸命、全身全霊を挙げて聞いたんですね。

そうやってブッダの教えを聞いた弟子たちのことを声聞と言いますけれど、そういう弟子たちがのちに経典をまとめ語るわけです。

バイブルもイエス・キリストが書いたものではありません。

これもイエスの言行を人々が伝えたものです。

『論語』は「子、曰く」、つまり先生はこうおっしゃったと弟子たちが孔子の言行をまとめたもの。

ソクラテスも語る人だった。

グーテンベルグの印刷革命から始まって書物が流行するようになりますが、われわれは活字とか書物を過大に評価しすぎているような気がしてならないのですよ。

表現というのは、基本的には生きている人に語りかけるものです。

グーテン ベルグより前の時代までは「語る」「聞く」がすべてでした。

ソクラテスだって一冊の本も残していません。

親鸞は「面授」と言っています。

弟子と問答を交わして大事な教えを直接授けるのだと。

ブッダもアーナンダ (阿態)をはじめ面接の弟子がたくさんいますね。

この面授を大切にするのは、肉声でその人の話を直に聴いたということが一番大事だからでしょう。

いまは勉強というと書物から学ぶことが専らですが、私はほとんどが耳学問で、人に会って話を伺うというやり方で今日までやってきました。

・黙読というのは近代に始まる

中世の神学者の話で面白いなと思ったのですが、ある時その神学者が自分の書庫に入ったら、甥っ子が無断で入って本を読んでいたというんです。

それを見た神学者が「驚くべきことに」と言って仰天しているのは、「その甥っ子は声に出さずに本を読んでいた」と。

つまり、黙読というのは近代に始まるものなんです。

それまでは本はすべて声に出して読むものだった。

声に出して読むと言うことは、その人が語ったことを追体験することなんです。

声に出して語られることを耳で聴き、それを受け止めるというのが本来の理解のあり方なんだけれど、とりあえず便利だから活字になっているものを読むようになった。

だから、語られることの代用品が本なんですよ。

・布施をする側が感謝をするもの

日本語の達者な現地ガイドさんがこう説明しました。

「布施行というのは布施をした人が幸せを得るんです。

 だから、出したほうが『ありがとうござい ます』と言わなければいけません。

 お金をもらったのだから頭を下げるのは当然だと考えるのは、あなたの間違いです」

と。

それはガイドさんの言う通りだと思いますよ。

僧侶というのは布施で生きるわけですから、布施をする側が感謝をするものなんですね。

インドの街角でお坊さんが黙って立つと、家の人が出てきて様々なものを渡して「ナマステ」と言ってお辞儀します。

それに対してお坊さんは別に餌くわりでもなく、黙って去っていく。

これが布施のあり方ですよね。

だから日本人の女性が「もう二度としない」と言ったのはたしかに間違っている。

それはとても面白いなと思いました。

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